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・・・先祖代々中野区上高田で生まれ育った方たちが、その歴史を後世に残そうと「ふる里上高田の昔語り」という限定本を刊行されたのが昭和57年(1982)。この本の執筆者達は大正前半の方で、前代や子供時代、当時の上高田、中野や近隣の様子が記載されています。限定版非売品で上製本仕立て。友人から借りてペラペラとめくった所、これがまぁなんと興味をそそる内容でいつの間にか半分を読みきっていました。そこで昔懐かしい中野地域に密着した出来事などを抜粋し、したためてみたいと思います。そうそう、この本の良い所は「この内容は、学者先生、文献的郷土史研究家の書いた物と異なり、本当に昔の生活にふれ、体験した私達が百姓の生活そのものを忠実に述べるようにした」、と執筆者が書いておられる事です。・・・
■まえがきより■
『私達にはいわゆる離れた処のふるさとはない。上高田で先祖から生活しここで生まれ育った。しかし、私達のように大正初始めに生まれ育った者にとっては、当時の上高田は江戸時代から明治へとあまり変わってない。同じような田園風景と生活が残っていた。村のまん中近くの畑の中には高い木の火の見櫓があり、この辺は全く広々としていた。氷川様の小柄な石の狛犬は(今は社殿の中に祀ってある)子供たちのよい遊び相手だった。田んぼの川には小魚が群れをなしていた。東光寺の麦わら屋根の古びた本堂には、五尺もある赤漆塗りのお閻魔様が嘘つきは舌を抜いてしまうぞ、と恐ろしい顔をしていた。みんな自分達の家の様子も屋敷森も昔のままで残っており、これが我々のふるさとであった。』
・・・大正の初めの頃は、江戸・明治、そして大正への変化は遅々としており、昔のままの上高田がそのまま残っていたようです。大正12年の関東大震災前は昔ながらの純農村で農家が41軒。それに酒屋、鳶、米穀商、大工さんなどと、大正元年頃から三年頃にかけ東京市内から移転してきた万昌院功運寺、願正寺、宝泉寺、神足寺、鏡妙寺の五寺と東光寺の裏手に高徳院が在り、総戸数65軒位であったそうです。・・・
■住まい■
・・・当時の家の様子はどうであったのか、執筆者のお一人である細井稔氏宅をご紹介しましょう。・・・
『約八百坪の主屋に宅地は、本通りから私道を入れば東の正規の入り口と、家の庭先から直接南の本通への入り口で北は竹藪沿いに北口があった。主屋は約五十坪の屋根の大きい麦わらと芽の混合葺の寄せ棟作り。上の棟は瓦で両側には空気抜きがあった。東向きに建てられ、いわゆる八丈四間の田の字型、床の間、押入れ、板敷の勝手、九尺の大きい正面引き戸の、大戸の入り口は六尺。少し北よりに離れ馬の出入りする引き戸があった。
正面大戸入り口を入ると座敷へ上がる約一尺幅の欅の上がり縁がある。この奥に一尺幅のテカテカに赤光りする大黒柱がありこれが我が家の中心である。大黒柱から右手土間に一間の目隠し板と飾り桟が出て勝手の境となっていた。このすぐ奥に囲炉裏とその燃料、薪入れの落とし口がありこれ以外は土間だった。西側勝手入り口三尺の口を入った所に普段炊事用かまどが二つ、少し間をおいて大釜があり、餅付き、馬の飼料を煮たり味噌仕込みに、大豆を煮たりする際の湯沸しに使った。大小釜の後は赤黒光の羽目板で、やや上の真ん中に荒神様が祀られていた。
家の東北角入り口の所が馬屋で一間の厩栓棒の内に馬がいた。枕元で馬が小便するほど家は狭くないが、馬の小便の音、馬舎(うまや)を蹴る音は普通の事で馬は大変大事にした。馬舎と板戸を隔てて風呂場が有り、時々馬が鼻面を出した。風呂場の北西の奥は、小出しの米、味噌、醤油、塩その他の物置になっていた。風呂場の前の上には、縁の付いた畳一枚分くらいの箱が釣ってあった。これは夜の鶏の休息所で、夕方長い板にグルグル縄を巻いた梯子をかけてやると自然にこの鶏舎に上っていく。梯子をかけ忘れると勢いよく飛び上がって入るものもあり、上がれずにマゴマゴと騒ぐというような有様であった。私の家では馬が好きで可愛がり、大切な労働力として扱った。』
・・・当時馬のいた家には軒並み軍馬徴用が行われ、戦死や病死した馬が多数出たため馬頭観音を建て供養をしたとの事です。・・・
『さて、農家には物置と広い庭が必要である。私の家では東側に西面してたのと、南側に北向きのトタンの差し掛けのある二棟の物置があり、貯蔵兼作業場、タクアン漬用樽の置き場、夏野菜出荷の作業場、米麦の仕事場等々に用いていた。物置には鼠の入らぬようにし、しっかり作った穀入れが出来ていた。
庭は日当たりが良く、約100坪以上の小石など無い四角い平らなきれいな庭で、家の東正面にあった。さらに東私道の表道路より入った右手に大小二棟の肥料小屋があった。中は漆喰作りの四角い大溜(おおだめ)と、厚い板張りの溜が夫々二槽づつあり、下肥貯蔵用とダラ肥え作りに使われた。小さい時は肥料物置に入ることはうるさく注意された。このほかに主屋に接続した西角に内便所、庭のすぐ南に深井戸があり夏は冷たく冬は暖かく、一年中絶えることの無い豊富な良い水が出た。』
・・・現在は深井戸がボーリングされて吸い上げられ、また道といわず一般住宅の多くの土地はコンクリートになり、ついに水脈も変わり我が家の自慢の井戸はほとんど水が出なくなったのは残念であると記して有ります。・・・
『家の西南奥には屋敷神として稲荷様が祀ってある。祭神は豊宇気昆売(ひめ)命稲荷大神と、稲蒼魂命(いねあほたまみこと)稲荷大神の二柱で、伊勢の大神宮から勧請したので一般の伏見稲荷や豊川稲荷より各が上だと父はいっていた。南の隅には外便所があった。以上が大体の建物の様子であった。
西側道路筋に大きい欅、樫、杉があったけれど落雷が有り、このために祖母の寿命を縮めたのでおおきい木は大部分は切った。北の樫の木は丸太棒を数段に結んで取り入れた稲干し、大根、切干大根、大根葉シバ等いろいろな物干しとして使用した。また中庭、井戸のそば、庭の北入り口の東、物置裏などに樹齢300年もする禅寺丸の柿の木をはじめ、家の廻り、東の方に柿の木が二十数本あった。上高田でも一、二に柿の多い方だった。東物置の先、茶の木が両側に植わっている私道を出ると広い空き地で、乾し場とか苗床用地になった。稲わらの裁断や堆肥作り、ヤシツ火といって稲の脱穀かすや、藁を蒸し焼きにする作業所は東の物置の先にあった。』
・・・以上が上高田の中農、上クラスの状況であったようです。現在昔の様子を垣間見る事が出来る一軒は、「♪ かきねのかきねの曲がり角、たきびだたきびだ〜♪」の発祥の地で元名主鈴木清兵衛さん宅です。住所は中野区上高田3−26−17ですが、ご家族は今もお住まいですから訪れるときはご配慮をお願いします。
・・・次回第二稿は日常生活、買い物についてです。お楽しみに!!・・・
●ふる里案内人● 花岡哲也 (株)花岡製本所(製本一級技能士)
小学校4年生から上高田の住人となり、現在は新井に在住。偶然にもある一冊の本を開いた時、小学校時代の友人、鈴木さん宅に何度かお邪魔し、遊んだ事が思い出されてきました。もう40年も前の事です。鈴木宅は昔からの上高田の面影を今も残し、時代の流れを気にせずに悠々と時を過ごしています。製本職人の性でしょうか、この時代の流れを記した素晴らしい本から上高田や近隣、中野区の昔を代弁したくなりました。
今は昔 上高田編(1)
今は昔 上高田編(2)
今は昔 上高田編(3)
今は昔 上高田編(4)
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