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前回、上高田編(1)では、限定本「ふる里上高田の昔語り」から、 大正前半生まれの執筆者達の前代や子供時代、当時の上高田の「住まい」について取り上げましたが、今回は日常生活についてご紹介いたします。
■当時のある一日「牧歌」■
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火の見櫓の絵
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『牧歌的環境の中で、幼いころは家の周りや一町四方の所で仲間と伸々と悪戯遊びができました。特に印象に残り、自分が絵のように思い浮かべるのは、今の三井電気店のところの畑ふちにあった火の見櫓である。 |
| あたり一面広い畑。まったく絵のような風景でここから西、上高田中通りの矢右は大島善太郎氏の家森で、入口から太い松ノ木が道上に枝を広げ、その下には馬頭観音が立っていた。
先の左側には島崎氏、小島氏、新井前の五軒町が一叢をなし、次第に左窪から傾斜しその先に杉木立の森が続き、この右奥に新井薬師の大屋根の本堂とここを取り巻く門前町の家々の屋根が望見された。杉木立のはるか先に点在する屋根のあたりが中野駅で、その左手あたりを機関車(SL)が黒煙と白い蒸気を上げているのまで見えた。
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当時の風景を彷彿させるような垣根のある家。(現存する上高田 鈴木邸)
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春、路傍に青草が燃え野の可愛い花が咲く頃、小さい男の児女の児が自然とここへ集まった。木の火の見へ登る大きい台石の上、摘み取った花や草でままごと遊びをしてよく遊んだ。時間のたつのも忘れ夢中で遊んでいるといつのまにか夕方になり、空一面に夕焼け雲が色彩を変えてゆく。富士山、丹波山麓、秩父の御嶽山から三峯山、武甲山の山波は次第に色を変え、その遥か右手に榛名、赤城の山々が一望できた。
「かまど」で食事の支度 |
いつの間にか家々の森から夕飯支度の煙が静かになびき始める。ようやく家へ帰ろうと空を見上げると、雁か鵜の大きい群れが夕焼け空を渡って行った。夜の暗さの下りる前の薄暮れには家の庭でこうもりが飛び交い、草履を放り上げると一緒に急降下して乱舞乱舞の一時。やがて夜の幕が下りると近く遠くにみみずくが鳴き、ふくろうが大きい木のどこかで鳴き始める。 |
| 家では一日の仕事を終えた父がまず馬に飼いばをやり、風呂から皆上がると薄暗いランプの下で一家揃っての食事が始まる。祖父も父も酒が好きだったので、大人の食事中に子供等は居眠りの船をこぎ出して一日は平和に終わった。父は毎夕新聞に目を通し、母や女中さんは夜なべ仕事がなければ農家の朝は早いので夜も早い。朝は一番鶏が鳥屋でトキをつくるとあちこちの家からも鶏鳴が聞こえ、馬は馬屋でひづめをけり食事の催促をし、再び朝早くから農家の一日が始まった。』 |

当時の農民の姿
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■ 商売屋と買い物■
『私が生まれ物心のついた当時(大正五、六年)、商家としては道ひとつ隔てた隣家が「池長」商店であった。店の手前半分の奥は米、麦、前方は四斗樽に雑穀、豆類、〆かす、油かす、煮干、大豆板が並んでいた。池長さんは既にこの当時中野五十番の電話番号で手広く商売をしていた。その他は皆小さい店であった。また、その外の砂糖、醤油、塩、食用油(味噌だけはどこの家でも自家製で、今の即席味噌は足元にも寄れぬうまさと、味噌漬をつくっていた)等、砂糖は花見とかザラメ。醤油は樽入、塩は俵、油は当時一斗缶のようなものはなく、一升瓶入れをいずれもまとめて淀橋の先の牧原酒店へ買いに行った。安五郎曽祖父が手車で買いに行くのに、一緒に帰りの後押しに行かされた。
東中野の今の六環通りの橋と並行してかかっている旧い橋を渡り、狭い道を一寸行くと中野氷川神社前側に出る。当時この辺りは一面の田んぼで、これを過ぎて浅政醤油のレンガ塀について行き、中野宝仙寺の三重塔のある大きい杉林の中を抜けると中野坂上に出る。坂を下りると右手に挽抜屋、製粉所の石森、左手に浅田味噌屋、飯田あぶ又があった。又上に稲荷様がありタカ稲荷といい大山詣りの神事をおこなった。
淀橋を渡ると右手に牧原商店があった。一通り色々の買い物を済ませ黒砂糖の大きい塊を愛想にくれたのを口に入れ、ついでに黒砂糖も買い入れ車の後押しをして帰った。その後しばらくして上高田にも一般食料品、雑貨、荒物のよろず商いの店ができ、大体のものは用が足り大変便利になった。』
■ 鍋屋横丁での買い物■
『明治二十九年四月一日、東多摩郡、南豊島郡を合併、新たに豊多摩郡が置かれ、翌三十年中野村は中野町となり野方町の出来たのは大正十三年四月一日であった。
中野は青梅街道沿いに開けた。この街道は慶長年間(1596〜1615)の始めに大久保石見守長安が幕命で江戸城普請用壁材の石灰を青梅奥の山から採取し、運ぶために開かれた。その前は成木街道とも云われていた。大久保石見守長安は、佐渡の金山奉行や伊豆の金山発見で有名な人である。このような次第で中野村は日本橋から二里、大木戸内藤新宿から二十町で宿場町とし栄えた。田無が中野の次の宿場で三里八町あった。石灰石のみでなく、青梅街道を通り西郊の農家は、穀物、野菜、薪炭、蕎麦等産物の中継地売買宿として栄え、浅田、石森等の醤油、飯田、浅田等の味噌屋、製粉業として、蕎麦、麦挽抜き業の石森、飯田外数軒が栄えていた。
従ってその外の商家も増し中心は鍋屋横丁であった。ここの十字路はお祖師様の参詣道で江戸後期に賑わった所である。鍋屋という茶屋があり、大変繁昌し梅屋敷としても有名で鍋屋横丁といわれるようになった。又一説によると参詣人相手に酒食を商う店が軒を並べていた。中でも「しらがき」屋ののっぺい汁(豆腐、大根、人参を煮て葛粉を加えたもの)が評判であったという。
堀之内妙法寺は昔は真言宗であったが、元和の始め日円が日蓮宗に改宗した。、安置される日蓮上人像は上人四十二歳の像を弟子が刻んだもので、厄除祖師とし遠近の信仰を集めた。松高山梅照院薬王寺の新井のお薬師様が子育て、治眼に霊験あらたかで、参詣人の多いのと双璧をなしていた。
以上の次第で鍋屋横丁のあたりからは色々商店も多かった。冠婚葬祭に関した買い物には、上高田では殆どの家がこの辺の店の顧客だった。嫁入り衣装から子供のお宮参り、外出着、奉公人の仕着等、いずれもここの呉服屋さん阿波屋さん、わたこ屋、山田屋等であった。その他お雛様、五月人形や羽子板、弓破魔などはかもじ屋、葬式饅頭等は鈴木屋とか弁慶などであつらえた。』
・・・次回第三稿は「上高田の縁故の深い処々」です。お楽しみに。
●ふる里案内人● 花岡哲也 (株)花岡製本所(製本一級技能士)
小学校4年生から上高田の住人となり、現在は新井に在住。偶然にもある一冊の本を開いた時、小学校時代の友人、鈴木さん宅に何度かお邪魔し、遊んだ事が思い出されてきました。もう40年も前の事です。鈴木宅は昔からの上高田の面影を今も残し、時代の流れを気にせずに悠々と時を過ごしています。製本職人の性でしょうか、この時代の流れを記した素晴らしい本から上高田や近隣、中野区の昔を代弁したくなりました。
今は昔 上高田編(1)
今は昔 上高田編(2)
今は昔 上高田編(3)
今は昔 上高田編(4)
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