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前回までは上高田を詳しく見てまいりました、今回は上高田に縁故の深い処々をご紹介いたします。なお、古い写真をご紹介しているため、あまり画像が鮮明ではありませんことをご了承くださいますよう、お願いいたします。
■新井薬師様■
『隣村のことではあるし、新井とは特に縁故が深かった。新井村は上高田より古く応永年間千四百年に開拓されたという。(野方町史)新井のお薬師様は松高山梅松院薬王寺と称し信義真言宗、本尊の薬師如来は五十センチメートル程のお厨子に安置されているというからあまり大きいみ仏ではないと思う。
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 昭和初期の新井薬師公園
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天正年間1,573〜1,591年間に僧行春の開基といわれる。子育て、治眼の信仰厚く、昔から八日の縁日特に花祭りの四月八日と一ヶ月後の五月八日は季節も良かったので、近郷近在の参詣人は今と比較しても賑やかであった。私達も心待ちにしお祭りに行った。 |
四月八日、五月八日には上高田の多くの家では灌仏も兼ね、季節の香りも高い「もち草団子」を朝早くからつき実に美味だった。縁日のお参りが終ると植木市、色々な子供の目を引くような屋台店の賑やかな数々、その中でも忘れられない味は一口カツで、竹串のままソースつぼにつけて立ち食いした味は今でも忘られぬ最高の珍味だった。』
・・・昭和26年生まれの私でもこの「カツ」は経験しています。もう40年も前になりますが。そのほかに鯨、イカゲソなどもあり確か一本10円〜30円で売っていたと記憶してます。当時、母が握らせてくれた小遣いは50円位なので、どれを買おうかかなり悩んだ思いが有ります。またバナナの叩き売りも全盛の時代で、「ああ懐かしき、よき時代」でした。・・・
| 『この頃(大正十五年頃)新井に芸者置屋、見番、上高田新井前の一角に三業(待合)が出来た。門前はちょっとした門前町をなし手前左側に萬谷、道を隔てた向かいが角屋、境内に山口屋、参道先の今の五叉路の右角が辰美濃と四軒もかなりの料亭が繁昌していた。 |
 現在の五差路
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どういうものか上高田の大人連中は山口屋のひいき一辺倒であった。その外大きい手焼きせんべい、瓦せんべい屋が三軒位、その他薬師様で生計を立てていた店が小区画をなしていた
萬屋で印象的なのは、秋の栗の取れる時節になると私達の通学路はここの前を通る。特に萬屋は栗飯が有名で、道路から見える広い表の板の上に、柴の前掛けに赤い襷姿の姉さんかんむりの女中衆が大勢ずらりと並び、小刀で栗の皮をむいていた光景が子供心にも華やかで何か色っぽい光景であった。夜になると主に早稲田の大学生が宴会に栗飯を食べに来た。早大特有の角帽に羽織(主として黒の紋服)袴で、デカンショ節や「都の西北」の校歌の合唱で大賑わいが展開されたヒゲを生やした連中が多く今の大学生は子供のようだ。皆威丈夫で随分年配のように子供心に思われた。。
| 裏手の今の公園も境内で、色々の見世物「のぞきからくり、ロクロッ首」などの見世物小屋の呼び込み、大きい円筒型の大桶中での一台、次は二台のオートバイの高速乗りや、時にはサーカス団などが小屋を張って「天然の美」の音楽を奏し、客を引き寄せるのに大わらわで今の縁日より遥かに面白かった。勿論金魚やもたくさん出た。』 |
 現在の公園
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■西武新宿線開通■
西武鉄道が村山線とし開通したのは昭和二年四月一日で、高田馬場〜東村山間が敷設された。当時は中央線と西武池袋線の中間地帯の鷺宮から村山方面の人達にとっては大変便利になるので大歓迎された。
『大正七年頃に法政大学の野球場が今の西武信用金庫の南西の場所にできた。この地所は新井の三左衛門さんという人の土地であり、敷地は三千坪以上あったろう。三左衛門さんの宅地は線路の北側にあり物置がいつまでも残っていた。
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線路が出来たため野球場は線路の南側と北側に分けられ、相撲場と弓術道場も作られた。線路が出来る前迄はまわりは畑であり、大根畑に球が飛び込むとなかなか見つからない。時には見つかった球も「見つからない」と嘘を言って球をかくして持ち帰り、やわらかく縫い直して自分達が学校で練習するのに使用した。
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神宮球場が出来る迄はここで六大学の試合が行われた。法政で活躍した名選手に、苅田、戸倉、鶴岡、若林等がいた。その後の選手に関根、山本浩二、田淵、江川等の選手が出た。その外に大学に入らなかった高校出身の人も、川上、別所、沢村等がいた。』
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 西武線開通直後(昭和2年)
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■東中野・柏木駅・中野駅■
『昔は柏木駅といって明治三十九年に開設された。日本閣南側の現在閉鎖されている踏切が南北の柏木駅入口で、ホームは今の日本閣の庭園の滝の上あたりの小駅だった。東中野と改称されたのは大正六年であった。中央線が現在のように複々線になる前は大変な紆余曲折があった。
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 中野駅北口の人力車(昭和初期)
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その後工業の発達に伴い、青梅附近の石灰石をセメント用に輸送するための甲武汽車鉄道が明治十三年許可された。愈々建設許可の段になると通交に当たる甲州、青梅街道の沿線住民の間から火の粉で火災発生の危険があるとか、煙公害の心配が増大し、当初賛成していた人達も多く反対するようになった。 |
| 先ず、明治二年青梅街道に十人乗りの乗合馬車が新宿田無間に開通した。そこで逆に街道筋を遮けて新宿〜東中野間を北にカーブし、東中野からは立川迄武蔵野の畑地を一直線に人家を除けるところに敷設した。 |
 中野駅前工事完成(昭和9年)
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明治二十二年四月一日、新宿〜立川間が開通した。当時の駅は僅か新宿、中野、境、国分寺、立川の五駅のみであった。二十七キロの単線で、横にいくつもある客車で一日一往復であった。今の二分以内のラッシュ間隔のことを比較すると、随分変化進歩したものである。
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 旧中野駅舎(昭和4年)
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 新駅舎(昭和7年)
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我々の当時、中野駅も以前はガードの西側にあり、木造の建物であった。電車は中野駅が終点でそれから先は汽車であり、高円寺、阿佐ヶ谷の駅はまだ出来ておらず、中野駅を過ぎると次は荻窪であった。東中野駅は小さな木造建物が線路の両側にあり、今の中野塔の山に行く道路の東のほうに柏木駅という名の駅があった。中野駅は中野電信隊と向かい合って居り、桜の盛りの聯隊祭(軍旗祭)の時など美しい眺めがホームから見られた。またこの日は営内入門ができた。
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 中野駅北口商店街(昭和初期)
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丸井前の道路はなく、駅前からダラダラ坂の両側に僅かに店があり、桃園橋の信号ランプのところへ下ってくるのが本通りだった。貨物の入れ換えや倉庫などは今の駅の辺まで伸びていた。ここで入れ換えする機関車の煙が、前記したように大正中期迄は上高田からも遠望できたようにまわりに人家も少なかった。』
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・・・次回もお楽しみに。
写真協力:中野区役所広報課
●ふる里案内人● 花岡哲也 (株)花岡製本所(製本一級技能士)
小学校4年生から上高田の住人となり、現在は新井に在住。偶然にもある一冊の本を開いた時、小学校時代の友人、鈴木さん宅に何度かお邪魔し、遊んだ事が思い出されてきました。もう40年も前の事です。鈴木宅は昔からの上高田の面影を今も残し、時代の流れを気にせずに悠々と時を過ごしています。製本職人の性でしょうか、この時代の流れを記した素晴らしい本から上高田や近隣、中野区の昔を代弁したくなりました。
今は昔 上高田編(1)
今は昔 上高田編(2)
今は昔 上高田編(3)
今は昔 上高田編(4)
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