今は昔 上高田編(6)
 

【農作業】1.麦作り(続き)

■ 麦こき ■

これが一日や二日では終わらず、一週間近くも続く大仕事で、男は天気の時は外の野菜作りに手間がかかるので、主に女の受け持ち仕事である。近所の非農家のおばさん達の手を借りることになる。まず麦こぎ用の鉄製で、先が尖った千本という高さ八寸、先の尖った幅三分強の鉄板を二十七本しっかり植え込んだ金こぎに木の枠の台を組み、動かぬよう下部の木枠は沢庵用の重石で押さえると用意完了である。

両手で持てる適当な束の表裏を良く手前に引くと、穂がきれいに取れる。千本の手前にはきれいな麦の茎が残るので、時々鎌で切り取る。この麦藁で蛍かごや人形を作ったり、子どもの良い遊び道具になる。石鹸水にこのストローをつっこんでシャボン玉遊び、母がつくってくれた小麦粉を焙烙で煎り、砂糖を入れた粉菓子を吸い込んだりした。悪戯盛りの坊主共は蛙をつかまえ、おしりに麦藁を差し込んで、息を吹き込んで腹をふくらませた蛙が苦しんであばれるのを面白がる、悪ふざけに興じ母に叱られたり、遊ぶのに事欠かなかった。麦こぎに入梅となることも多く、女達は結構色々な世間話しに興じていた。

 

昭和の始め頃、機械こぎが出来るようになった。丸いドラムの周辺に鋼鉄のリングがぐるり固定され、足踏み(後には動力で)で早く回転するドラムに麦束を押さえ気味にまわしてやると粒になって穂がとれ、非常に能率的になった。もちろん稲にも使用出来た。また、この頃になると木製手車に代わり軽くて使いよいリヤカーの普及、馬も安くて従順な朝鮮牛が取って代わった。

■ 棒打ち 麦打ち ■

昔の農家の仕事には石油、電気、機械等はなかった。今の米作りは稲作り、田植え、予防、除草、刈入れ、脱穀とすべての作業が機械力で完遂されてしまう。所謂三チャン農業が成り立つ。誠に昔から比較すると夢のような大変化、大革命である。昔は農家にとって体力的に楽な仕事など実に少なかった。総ての仕事が手仕事でつらい作業ばかりといえよう。

昔の人が早く老け込み、腰の曲がった老人の多いことも、主として仕事上の原因である。つらい仕事の多いうちでもとりわけ大仕事は麦の棒打であろう。梅雨もあけた蒸し暑い晴天の夏、主屋の雨戸は朝のうちから閉めてしまう。庭一面に麦穂を拡げ乾燥する。馬に四輪者をひかせ、拡げた麦の上をグルグル引かせる。炎熱は次第に上がってくる。愈々一家総出に、親戚数軒から互いに手間借りして麦打ちが始まる。

棒打ち

帽子、頬かむり、首に手拭、長袖シャツ、股引姿、女衆は姉さんかむり、手甲脚半の身支度を整え五、六人づつ位が向き合って、くるり棒を景気良く掛け声をかけながら少しずつ移動しながら麦を打ってゆく。くるり棒は丸太の打つ方を平面にしたのや、鉄の薄板を四、五枚一定間隔で固定し、束ねた物を使った。汗は体一面からしたたり、ノゲはチクチク体の柔らかいところを刺す。

こういう辛い仕事には思いっきり景気の良い掛け声を掛け合うとか、自然に労働歌として生まれたのが棒打歌である。昔からきまって歌われる文句の歌もあれば、即興の掛け合い歌が出る。猥雑な面白い掛け合いも男女間で歌われ、仕事のはかどりも進む。

♪棒打ち歌♪ 共著中村倭武様抜粋

お前さんとならば、どこまでも
  親を捨て、この世が、闇になるとも、
十七、八、の麦棒打は、くるり棒が折れるか
  麦が打てるか
大山先きに、雲が出た、あの雲は
  雨か風か、嵐か
お前さんと色の、始まりは
  五匁目の、煙草が色の始まり。

棒打ち

上高田だけでなく、かなり広い範囲にまで棒打ち歌は歌われたが、所によりテンポや文句の多少の違いはあった。くるり棒の扱いも少し慣れるとコツは簡単である。横ぶれのないように棒を回転させ、棒の先が真上に上がったところで力を入れて打ち下ろすと面白いように打てる。始めはこのコツをのみ込むまでは自分や隣の人の肘に当たるが、慣れるのも早い。

私も小学校六年くらいの時、既に大人と一緒に結構仲間に入った。一通り敷きつめ麦打が終わると、熊手で粒とまだ穂の部分に分け穂の部分だけ再びこなす。これが終われば全部の麦を一ヶ所に集め、麦篩にかけ、とうみに掛けると良い粒と未熟のヒイナ粒と塵に分かれる。良い粒は四斗樽に入れ、天気の良い日に筵の上に拡げ、何日か乾燥と天日殺虫をすると一段落である。乾燥が十分に済むと俵詰めにする。父親が新しい縄で手足のさばきも手ぎわ良く、俵の山が庭の隅に積み上げられると、やっと長い労苦が報われた実感が湧いてくる。棒打は炎暑の最中の仕事で、体中の汗が全部出てきている衣類は塩が出て白っぽくなり、農作業としては一番の重労働である。十時、昼食、三時、夕食と五度飯を食べ、普段より栄養をつけぬと体が保たぬ。家の中も戸のすき間から入った埃であと掃除も大変である。

とうみ

こんな労苦のクライマックスと、半年以上も手塩にかけた作物の値段はどうであったろうか。【天保年間(1830〜1843年)頃、米は一両につき二石、五〜六斗、大麦四石余、小麦一石、七〜八斗であった。当時は肥料(下肥を始め糠、干鰯、〆粕)は仲買人が値段を引き上げ、また奉公人の供金も上り百姓も楽ではなかった。(中野区史上、668頁)】明治九年頃は、東京米は一石四円八拾銭であった。昭和の十三年頃は、米一石三拾四円七拾銭、大麦は拾九円八拾銭程度であった。

 



次回は【農作業】2.「米作り」です。お楽しみに。

●ふる里案内人●
花岡哲也 (株)花岡製本所(製本一級技能士) 
小学校4年生から上高田の住人となり、現在は新井に在住。偶然にもある一冊の本を開いた時、小学校時代の友人、鈴木さん宅に何度かお邪魔し、遊んだ事が思い出されてきました。もう40年も前の事です。鈴木宅は昔からの上高田の面影を今も残し、時代の流れを気にせずに悠々と時を過ごしています。製本職人の性でしょうか、この時代の流れを記した素晴らしい本から上高田や近隣、中野区の昔を代弁したくなりました。



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