高村光太郎が一人を生きた桃園

八年間離れていると、生まれ故郷の東京という処もまるで他国のような気がするし、又事実ひどく様子が変わっているので、岩手から今東京に出てきて相当にまごついているが、幸い格好のアトリエを借りる事が出来、場所も中野区桃園といふ割に静かなところなので、まず落ち着いて仕事だけはしている。むしろ仕事だけに没頭しているといった方がよい。

 青森県から頼まれた今度のモニュメントの彫刻を作るについては、何しろ長い間休んでいた後なので、いくらか作りにくくはないかという懸念もあったのであるが、さてアトリエに立籠って粘土を手にしてみると,まるで昨日まで制作をつづけていたやうな気がして少しも不調を感ぜず、すらすらと指が動く。

高村光太郎『制作現況』 
昭和27年 高村光太郎全集第10巻 筑摩書房

十和田湖畔に立つ高村光太郎作 「乙女の像」
(画像提供 
RONさん

 街路樹のトウカエデが西日を受けて最後の紅い輝きを放っていたのもつかの間、一夜の木枯らしの唸りに、翌朝は見るかげもない裸木の行列になっています。

 人の凋落人の老いというものも、このように突然にやってくるものなのだろうか、などと思いながら中野駅前にやってきています。こころなしか今日は太陽も力がないようです。

気になるお肉屋さん 豊川稲荷

 しかし、昔の将軍様にとっては、今時分は鷹狩の季節で、獲物は鶉であったようです。このような時に、野方領の各村から公平に勢子を集める仕事を差配していたのが77か村の触頭堀江氏で、なにかと江戸城の御用を務めていたことが、残された文書から知られています。この堀江氏から土地を寄贈され建てたのが女性会館のそばの堀江高齢者福祉センターです。

 特に将軍吉宗は鷹狩が好きで度々中野にやってきますが、その時代にこのあたりに桃の木が植えられました。それ以前は綱吉将軍のあのお犬様のお囲い跡です。

 五代将軍綱吉と八代将軍吉宗は、間に二代の将軍をはさんでいるものの対照的にみえます。吉宗には改革派のイメージがあります。桃園は庶民の行楽地にもなり、最初の国立公園だという人がいます。それでこのあたりは、以前「桃園」という地名だったのですね。

 当時の様子は、「花の頃は見渡すこと三里ばかりは桃の一色でとてもまれな眺めである」と表されています。吉宗将軍がやってきたときの「お立場」があったのが、丸井のうらの高台です。今は閑静な住宅地になっています。そのことを示す標識の類もないのですが、中野にやってきて知る人もなかった私は、春を待ちかねて庭木の花を外から眺めに、この中野3丁目の台地に出かけたものでした。

桃園のお立場 中野3丁目の松

 そのような由緒のある桃園町の名前を惜しげもなく捨ててしまったのは,今から思えば残念なことで、桑子敏雄東京工大教授は「環境の哲学」(講談社学術文庫)のなかで「人間の履歴は、そのひとが活動し、暮らした空間と不可分な関係にある。どのような空間でどのように生きたかということがその人の履歴なのである」として地名・住居表示をソフトな社会資本と呼んでいます。せめてどこかに旧町名を表示して、わが町への愛着をいっそう大切にしたいものです。

 さて、冒頭に掲げたのは、今から50年近く前の12月10日に書かれ岩手日報に掲載された文章だそうです。高村光太郎といえば思い出すのは、まず智恵子抄にある「樹下の二人」にでてくる智恵子の実家があった福島の阿多多羅山の麓,今も残っている岩手県の花巻近くの山荘そして青森県の十和田湖畔に立つ乙女の像でしょうか。

 光太郎は東京生まれにしては東北本線と縁の深い印象があります。その十和田湖畔に立てる裸婦像の制作のために、70歳の高村光太郎が花巻郊外の山荘から東京に八年ぶりに出てきたところが中野桃園の地で、あの乙女の像が中野で生まれたのかと思うとうれしい気持ちになります。

 なぜ東京へ出てきたのでしょうか、東京は制作に便利ということもあるのでしょうが生ビールと食い物のうまさをしきりに言っているのが面白いところです。

 モデルが戦前より気持ちもかたちも明るくなっていると誉めています。そのモデルですが、18歳のF嬢ということが判っています。しかし、桃園のアトリエでこのようにも語ったということが全集の月報で紹介されています。「この裸像の顔を見ていると、勿論モデルにも似ているがだんだん智恵子に似てきてしまった。知らず識らずに、智恵子になってくるのが自分でも不思議でならない」と。




それらしき建物

レモン哀歌はあまりにも哀切で、最近心弱く涙もろくなっている私にはこたえます。その智恵子を亡くして15年の歳月の後、老いた高村光太郎が制作に情熱を燃やしたアトリエはどのあたりだったのだろうか。

旧桃園川が杉並に差し掛かる少し手前でそれらしい建物にであったので、それと決めて写真を撮リました。


そのあと智恵子の作品が表紙を飾っている雑誌「青踏」のバックナンバーがある中野区女性会館に向かうべく、桃園川緑道を引き返しました。

 いま雪の降り積もる十和田湖畔に立つ「乙女の像」はさぞ寒かろうと思いながら。

 

2001年12月

散歩人紹介
西山五右衛門(にしやまごえもん)
東京散歩人あるいは路地裏の散歩者を名乗っている。そもそも、まち歩きのきっかけは、10年ぐらい前に金属製のコンパクトカメラの冷たく重い感触にひかれて衝動買いしてしまって、何を撮ってよいか分らず、いろいろな町の住居表示を写して歩くことにしたことにはじまる。もとは山の帰りに地方都市を歩いていた。読書傾向はもっぱら日本志向で趣味は古社と秘湯それに・・・・・・・

○バックナンバー
第1回:寂聴さんが暮らした野方
第2回:中野長者が住んでいたまち
第3回:高村光太郎がひとりを生きた桃園
第4回:鷺宮の壷井栄とオリーブの緑
第5回:浅田次郎が描いた鍋横
第6回:芹沢光次良と中野の空襲