芹沢光次良と東中野の空襲

住吉町でも、三越青年寮の左裏の方がさかんに燃えている。その火の手が南に百メ−トルも延びれば、次郎の隣組の前の住吉町だ。火の勢いでは、道をへだてた次郎達の家にも移るだろうが、手のほどこしようもないのだ。その火を目標に、B29が飛来して焼夷弾をおとせば、わが隣組は火を噴きあげるのだ。

この人とともに逃げるより他にない。華州園のなかの路は椎の古木の並木で、ここばかりは暗くて、ごうごうと家の焼ける音響だけが追いかけて来る。伊賀の上野の殿様の屋敷も三越の重役の屋敷も、避難したらしく、大門をあけたまま静まりかえっている。


芹沢光治良 『人間の運命』 昭和20年 

 

小住と並べて称される小滝と住吉、そして中央線の線路際に咲くさくらで有名な桜山、線路の南側の上ノ原、高根、氷川神社のある氷川、東中野は中野よりもうひとつ格が上の住宅地であったようです。もし戦災に遭わなければ、中野区にも高級感漂う邸宅が立ち並ぶまちが残されていただろうとおもうと残念な気がします。

そこには大臣もいれば爵位を持つ人達も多く住んでいたそうで、長く区議会議員を務め、議長をされたことのあるN氏から、戦前、医師としてこの邸宅街を人力車で往診に回ったものだという回想を伺ったことがあります。

東中野2丁目のバラ・旧高根町
東中野2丁目のバラ・旧高根町


このような東中野の住宅地は大震災の後、交通の至便の住宅地としてひらかれたのですが山手通りに面した氷川神社の裏側にあたる東中野1丁目の住宅地は、箱根土地(現在の西武鉄道系の会社)の分譲地であったそうで、当時の一区画は100坪前後つまり300平米といいますから、今ではいわゆるマンション用地です。

ここに住む人達が永らく建築協定をむすんで環境を維持したこともあって、いまでも森閑とした佇まいが残っています。
日本閣北側の小滝町の台地は本来なら大使館の一つや二つはあってもよい土地柄です。冒頭の伊賀上野の殿様つまり藤堂家をはじめ大きな屋敷が並んでいたところなのです。ここはかつて屋敷地としての分譲が行われたそうです。
東中野3丁目・旧氷川町
東中野3丁目・旧氷川町

古い地図によると小学校の敷地に遜色ない大きさの区画には驚きます。眺望もよかったはずで、夕日に輝く東京市の市街地が一望できたでしょう。いまでも東中野小の校庭開放時にはその展望を体験できます。

また、この台地に、若き日の周恩来首相が居住していたことがあると言う話しを聞いたことがあります。

自伝とか確たる文献があるわけではなく伝説のような話しです。かの大人が留学生として日本にやってきたのは1917年、祖国を巡る状況の変化は長く留まることを許さず、帰国したのは1919年と言われていますから2年という短い年月です。このあたりには留学生たちを後援する人がいた、留学生の会館のようなものがあったとの説もあり定かではありません。

東中野5丁目・旧小滝邸
東中野5丁目・旧小滝邸

いずれにせよ、台地へつづく坂道を登っていく留学生周恩来の姿を想像すると、そこに日本の来し方をふくめた、ある種の歴史的な感慨を感じます。
このような東中野の町は、昭和20年4月13日夜、昭和通、桜山町住吉町に集中的に落とされた焼夷弾による大火災によって786戸の家々がまず全焼してしまいます。

このような東中野の町は、昭和20年4月13日夜、昭和通、桜山町住吉町に集中的に落とされた焼夷弾による大火災によって786戸の家々がまず全焼してしまいます。

その後5月25日の深夜から26日にかけての山の手大空襲は、かろうじて残っていた山の手市街地に壊滅的な打撃を与え、強風にあおられて燃え上った火災で中野区の約半分70,736戸が焼失、このとき東中野の町のほとんどが消えてしまったのでした。  


10万人もの人が死んだ3月の東京大空襲で、麻布の偏奇館を焼けだされた永井荷風が住吉町23番地の国際アパートにたまたま移り住んでいたのですね。荷風はここでもまた空襲に遭います。断腸亭日常には「無数の火団路上到るところに燃え出で、人家の垣墻(えんしょう)を焼き初めたり。予は菅原氏とともに燃立つ火焔と騒立つ群集の間を逃れ、昭和大通上落合町の広漠たる焼け跡(4月中罹災の地)に至り、風向きを見はかり、崩れ残りし石垣のかげに熱風と塵姻(じんえん)を避けたり。・・・・・」とあります。

アパートは跡形なく焼けてしまって、中野を去ることになるのですが、荷風好きの私としはあの永井荷風が、この頃中野と多少なりとも縁を持ったことを面白く思っています。

前の空襲で出来た空き地が避難に役立つということにも驚きますが、当時の写真を見ると、焼けるものの無くなった土地がすばやく片付けられ、耕されていることに気がつきます。毎日のように続く警戒警報・空襲警報の緊張のもとで、飢餓とも紙一重の生活であったのです。
山の手大空襲のあと
山の手大空襲のあと

戦争といえば空腹を思い出す人も高齢者には多いと思います。飢餓に苦しむ人々の気持や、空爆される立場に思いを致すことをわすれてコタツでTVを見ている自分を自省しています。

立春ともなれば庭先に咲く早春の花など求めて、丘の上に昔の屋敷町の面影を訪ねてみるのもよいのではないでしょうか。小滝橋から神田川と山手通りの間の台地に上り中央線を越えなるべく尾根筋の住宅街を南下し、いったん旧桃園川に下り中央1丁目の昔伏見宮邸のあったいわゆる小淀山に上り淀橋をめざすコースはいかがでしょうか。 

2003年1月

散歩人紹介
西山五右衛門(にしやまごえもん)
東京散歩人あるいは路地裏の散歩者を名乗っている。そもそも、まち歩きのきっかけは、10年ぐらい前に金属製のコンパクトカメラの冷たく重い感触にひかれて衝動買いしてしまって、何を撮ってよいか分らず、いろいろな町の住居表示を写して歩くことにしたことにはじまる。もとは山の帰りに地方都市を歩いていた。読書傾向はもっぱら日本志向で趣味は古社と秘湯それに・・・・・・・

○バックナンバー
第1回:寂聴さんが暮らした野方
第2回:中野長者が住んでいたまち
第3回:高村光太郎がひとりを生きた桃園
第4回:鷺宮の壷井栄とオリーブの緑
第5回:浅田次郎が描いた鍋横
第6回:芹沢光次良と中野の空襲